望みが生まれたら、次の望みが生まれてくる
何かを望んだとき、私はその望みを叶えることがゴールなのだと思っていました。
こうなりたい。
これが欲しい。
こんな暮らしがしたい。
望みが叶えば嬉しいし、叶わなければ残念。
そんなふうに、望みと現実を結びつけて考えていたんです。
でも、エイブラハムの教えに触れながら、自分の望みについて考えていると、
少し違う見方ができるようになってきました。
ひとつの望みが生まれる。
その望みを想像すると、楽しい気持ちになる。
すると、今度は別のこともしてみたくなる。
ひとつの望みが、次の望みにつながっていく。
そう考えると、望みというのは、ひとつ叶えたら終わりというものではないのかもしれません。
むしろ、望みが生まれることから、次の楽しみが始まっているのではないか。
そんなことを考えるようになりました。
望みは、ひとつ叶えたら終わりではなかった
これまで私は自分の望みを考えるとき、何を叶えたいのかをはっきりさせようとしていました。
何が欲しいのか。
どうなりたいのか。
何を実現したいのか。
そして、その望みを叶えるために何をすればいいのかを考える。
でも、望みをひとつ決めてしまうと、
今度はそれを叶えることばかりが気になってしまうことがありました。
まだ実現していない。
どうすれば叶うんだろう。
いつになったら現実になるんだろう。
本当は望みについて考えることが楽しいはずなのに、いつの間にか、叶えることが目的になってしまう。
でも、考えてみると、私たちはひとつの望みが叶ったあとも、また別のことを望むようになります。
行ってみたい場所に行ったら、今度は別の場所にも行ってみたくなる。
好きなものを手に入れたら、それに合わせて別のものが欲しくなる。
新しいことを経験したら、今まで知らなかった楽しみに気づくこともある。
ひとつの望みが叶ったら、そこで人生の望みがすべて終わるわけではありません。
むしろ、経験したからこそ、新しい望みが生まれることもあります。
そう考えると、望みはゴールというより、次の楽しみへとつながっていくものなのかもしれません。
そして、エイブラハムの教えを思い返すと、経験を通して望みが生まれていくという考え方も、
少し違った意味で感じられるようになりました。
経験することで、次の望みが生まれてくる
エイブラハムの教えでは、私たちが経験するなかで新しい望みが生まれていくという考え方が語られています。
何かを経験すると、もっとこうだったらいいな、こんなこともしてみたいな、という気持ちが生まれる。
望みは、最初からすべて決まっているわけではありません。
実際に経験することで、自分が何を好きなのか、何を求めているのかに気づくこともあります。
たとえば、旅行に行きたいと思ったとします。
最初は、ただその場所に行ってみたい。
でも、実際に行ってみたら、街の雰囲気が気に入るかもしれない。
そこで暮らしている人たちの様子を見て、こんな場所でゆっくり過ごしてみたいと思うかもしれない。
あるいは、現地で食べたものがおいしくて、今度は別の料理も食べてみたくなるかもしれません。
最初の望みは「旅行に行きたい」だった。
でも、その経験によって、次の望みが生まれてくる。
そして、その望みが叶ったら、また新しい望みが生まれるかもしれない。
こうして考えると、望みというのは、あらかじめ正解を見つけておかなければいけないものではないんですよね。
今はこれがしたい。
その経験を通して、次にしたいことが見えてくる。
まだ知らないことを経験するからこそ、自分でも想像していなかった望みに出会うことがあるのだと思います。
ただ、私はこれまで望みが生まれることよりも、
その望みをどうやって現実にするかということに意識を向けすぎていたのかもしれません。
望みが生まれた瞬間にも、楽しさはある
何かを望んだとき、私たちはつい、その望みが叶ったときのことを考えます。
欲しいものが手に入ったら嬉しい。
行きたい場所に行けたら楽しい。
やりたいことができたら満足する。
もちろん、実際に望みが叶うことには喜びがあります。
でも、最近になって、望みが叶う前にも、楽しさがあることに気づきました。
以前、私は高校生の頃に、思わずニヤニヤしてしまうような妄想をしていたことを思い出しました。
こんなことが起こったら嬉しいな。
そんなことを想像しているだけで、楽しい気持ちになっていたんです。
当時は、そのあとに「でも、実際そんなこと起こったことないしな」と考えて、
想像を取り下げてしまうこともありました。
でも、今振り返ってみると、あのときは、まだ何も実現していなかったのにすでに楽しかったんですよね。
未来が現実になったから嬉しいのではなく、未来を想像すること自体が嬉しかった。
望みが生まれた瞬間に、もう楽しさがあったんです。
そして、その楽しさを感じているとき、次はこんなこともいいな、
あんなこともしてみたいな、と想像が広がっていくこともあります。
望みが叶うまで楽しめないのではなく、望みを思い描くことも、
望みの先にあるものを想像することも、楽しみの一部だったのかもしれません。
そう考えると、エイブラハムが教えている「望みに意識を向ける」ということも、
何かを叶えるためだけの作業ではないように感じられます。
望みに意識を向けることは、叶うまで待つことではなかった
エイブラハムの教えに触れていると、望みに意識を向けることや、その望みに合う気持ちを感じることが大切だと語られています。
以前の私は、それを実践しようとすると、少し難しく考えてしまうところがありました。
望みを叶えるためには、どう考えればいいんだろう。
どうすれば、望みが叶うと信じられるんだろう。
どうすれば、もっといい気分でいられるんだろう。
そんなふうに、望みに意識を向けることまで、何かを実現するために頑張ることのように考えていたんです。
でも、望みについて考えることが楽しいなら、その時間も大切にしていいのかもしれません。
叶うかどうかを確かめるために想像するのではなく、
想像すると嬉しいからその望みに意識を向ける。
その望みについて考えていたら、自然に次の楽しみが浮かんでくる。
そんなふうに、望みから望みへと意識が広がっていくこともあります。
そして、まだ実現していない望みであっても、考えることで嬉しい気持ちになれるなら、その楽しさを今、感じることができます。
もちろん、想像したことが必ず現実になるという保証はありません。
でも、現実になったかどうかだけを基準にしなくても、望みに意識を向ける時間には意味があるのだと思います。
何かを叶えるために、いい気分にならなければいけない。
そう考えると、また頑張ることになってしまいます。
でも、望みについて考えることが好きなら、その楽しさを感じていればいい。
そのなかで新しい望みが生まれたら、それも受け取ってみる。
望みが叶うことだけを目指すのではなく、望みが広がっていく過程も楽しんでいいのかもしれません。
そう考えると、今の自分が何を望んでいるのか分からないときも、
焦って答えを見つけなくていいのではないかと思うようになりました。
次の望みを、今すぐ見つけなくてもいい
自分の望みを大切にしようと思うと、
今度は「では、私は何を望めばいいんだろう」と考えてしまうことがあります。
もっとワクワクすることを見つけなければ。
次の目標を決めなければ。
何か新しいことを始めなければ。
でも、望みが次々と生まれるものだとしたら、
今すぐ次の望みを見つけようとしなくてもいいのかもしれません。
今、やってみたいことがあるなら、それを楽しんでみる。
今、好きだと感じるものがあるなら、その気持ちを味わってみる。
特に何も思い浮かばないなら、今は何も思い浮かばないという状態でもいい。
次の望みは、今の自分が知らない経験や、
ふとした出来事から生まれてくるかもしれません。
以前の私は、望みを持つことにも、いい気分でいることにも、
何か特別なことをしなければいけないように考えていました。
でも、望みは無理につくり出すものではなく、経験や気持ちの変化を通して自然に生まれてくることもあります。
そして、その望みがどこにつながっていくのかは、最初から分かっていなくてもいい。
今の望みを楽しみながら、次にどんな望みが生まれるのかを楽しみにしていてもいいんですよね。
まとめ|望みは、次の望みへとつながっていく
私は以前、望みが叶うことをゴールのように考えていました。
望みを決めて、それを実現する。
叶えば嬉しいし、叶わなければ残念。
でも、エイブラハムの教えを通して望みについて考えるなかで、
望みはひとつ叶えたら終わりというものではないのだと感じるようになりました。
何かを経験することで、新しい望みが生まれる。
ひとつの楽しみから、次の楽しみが広がっていく。
そして、その望みについて想像している時間にも、すでに嬉しさや楽しさがある。
未来が現実になるまで、楽しみを待たなくてもいい。
今の自分が望んでいることを感じ、その望みについて考えることを楽しんでもいい。
次の望みを、今すぐ見つけようとしなくてもいい。
望みは、最初からすべて決まっている必要はありません。
今の望みを通して、また新しい望みに出会っていく。
そう考えると、人生は、何かひとつのゴールにたどり着くためだけのものではなく、
望みが生まれ広がっていく過程そのものを楽しめるものなのかもしれません。
ひとつの望みを叶えることだけが楽しみなのではなく、
望みが生まれ、次の望みへとつながっていくことにも、楽しさがある。
今は、そんなふうに思っています。