望みが生まれても、すぐに取り下げていた

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こんなことができたらいいな。
こんなふうになったら、きっと楽しいだろうな。
そんなことを想像して、思わずニヤニヤしてしまうことはありませんか?

私は高校生の頃、たまにそんなふうに妄想することがありました。
想像しているだけで楽しい。
実際にそうなったら、どんなに嬉しいだろう。

でも、しばらくすると、こんな考えが浮かんでくるんです。
「でも、実際そんなこと起こったことないしな」
「どうせ、そんなことは起こらないだろうな」
そして、せっかく楽しく想像していたことを、自分で取り下げてしまう。

今振り返ってみると、私はずっと、そんなことを繰り返していたのかもしれません。

望みが生まれたとき、私はすでに嬉しかった

高校生の頃、私は何かを想像しているだけで、楽しい気分になっていました。
まだ現実には何も起きていない。
誰かと約束したわけでもないし、それが実現するという保証もない。
それでも、想像するだけで嬉しくなる。

今思えば、そのときの私は未来についてあれこれ考える前に、
すでに自分の望みを楽しんでいたんですよね。
こうなったらいいな。
こんなことが起きたら嬉しいな。

そんな気持ちが、自分の中から自然に生まれていた。

でも、私はその楽しさを、そのまま味わっていることができませんでした。
「でも、実際そんなこと起こったことないしな」
そんな考えが浮かんでくると、急に現実に引き戻される。

そして、どうせ叶わないのだから、こんなことを想像しても仕方がないと思ってしまう。
せっかく楽しかったのに、その楽しさまで手放していたんです。

このことを思い出したとき、エイブラハムが伝えている
「望み」や「いい気分でいる」という話が、少し違った意味で見えてきました。

望みを持つことと、叶うかどうかを考えることは違う

エイブラハムの教えに触れていると、自分の望みを大切にすることや、
望むことに意識を向けていい気分でいることが語られています。
以前の私は、それを実践しようとすると、少し難しく考えてしまうところがありました。

望みを叶えるためには、どう考えればいいんだろう。
どうすれば、もっとワクワクできるんだろう。
どうすれば、叶うと信じられるんだろう。

そうやって、いい気分でいることさえ、
何かを実現するために身につけなければいけない技術のように捉えていたんです。

でも、高校生の頃の自分を思い出すと、私はすでに、自然と楽しい気分になっていました。
何かを叶えようと努力していたわけではありません。
ただ、想像することが楽しかった。

そこには、「本当に叶うのかな」と確かめる必要も、
「これには意味があるのかな」と判断する必要もなかったんですよね。

ところが、望みが現実になるかどうかを考え始めた途端、私はその楽しさから離れてしまった。
つまり、望みを持つことと、その望みが叶うかどうかを考えることは、別のことだったのかもしれません。
まだ叶うかどうか分からなくても、望んでいい。

現実になっていなくても、想像して嬉しくなっていい。
望みを楽しむために、その望みが実現すると証明する必要はなかったんです。

それなのに私は、望みが生まれたあと叶うかどうかを考えることで、
その望みを楽しめなくなっていました。

いい気分でいようとして、いい気分を手放していた

エイブラハムの「いい気分でいる」という話を聞くと、
いつもポジティブでいなければいけないように感じることがあります。
ネガティブなことを考えないようにしよう。
望みを疑わないようにしよう。
叶うと信じられる自分になろう。
そんなふうに考えてしまうこともありました。

でも、それでは、いい気分でいること自体が頑張らなければいけないことになってしまいます。
そして、そう考えているときの私は、自然に生まれた楽しさを味わうよりも、
自分の思考を管理することに意識を向けていました。
楽しい想像が浮かんでも、
「こんなことを考えていても、叶わなければ意味がない」
と思ってしまう。

ワクワクすることを考えようとしても、
「こんな程度の気分でいいのかな」
と考えてしまう。

これでは、せっかく何かを楽しもうとしているのに、その楽しさを自分で打ち消してしまいます。
でも、そもそも、いい気分でいることは、無理に明るい思考を作り出すことなのでしょうか。
楽しいことを想像して、自然に嬉しくなる。
好きなものを思い浮かべて、なんだか気分がよくなる。

そんなふうに、すでに生まれている気持ちを、そのまま味わうこともできるはずです。
いい気分になるために、何か特別なことをしなければいけないわけではなかったのかもしれません。

そして、もうひとつ気づいたことがあります。
楽しさを打ち消していたのは、必ずしも大きな不安や恐れではなく、
ふと浮かんでくる何気ない考えだったということです。

望みのあとに、自動的に出てくる思考があった

何かをしたいと思う。
こんなことが起きたら嬉しいな、と想像する。
すると、あとから別の考えが浮かんでくる。

「でも、うまくいくのかな?」
「そんなこと、本当に起こるの?」
「どうせ無理なんじゃない?」

こうした思考は、必ずしも自分で意図して考えているわけではありません。
望みを楽しんでいたはずなのに、気づけば、そんな考えが頭に浮かんでいる。

私は以前、こうした思考を、自分の判断として受け取っていたのかもしれません。
「どうせ無理」と思ったのだから、やっぱり無理なのかもしれない。
「叶うか分からない」と思ったのだから、もっと現実的に考えたほうがいいのかもしれない。

そんなふうに、浮かんできた思考を理由にして、望みを取り下げていました。
でも、今は少し違う見方ができるようになってきました。

望みが生まれることと、そのあとに思考が浮かんでくることは、別のことです。
「こうなったら嬉しいな」と思った。
そのあとに「でも、無理かもしれない」と思った。

どちらも自分の中に生まれたものだけれど、後から浮かんできた思考が、
最初の望みを否定する答えだとは限りません。
ただ、そういう考えが浮かんできた。
それだけなのかもしれません。

そう考えると、望みを取り下げないために必要なのは、
ネガティブな思考をなくすことではなくその思考が浮かんできたときに、
もう一度自分の望みに戻ることなのかもしれません。

「それでも私はどうしたい?」と聞いてみる

不安な考えが浮かんできたとき。
「でも、失敗するかもしれない」
そう思ったとき。
その考えを消そうとしなくてもいい。

無理にポジティブな考えに変えようとしなくてもいい。
そんなときに、もう一度、自分に聞いてみる。
「それでも私はどうしたい?」

怖いけれど、やってみたい。
叶うかどうか分からないけれど、こうなったら嬉しい。
人にどう思われるか気になるけれど、自分はこうしたい。
そんな答えが返ってくることもあるかもしれません。

もちろん、望みがあるからといって、すぐに何かを実行しなければいけないわけではありません。
すべての望みを現実にする必要もありません。

ただ、自分の中に生まれた望みを、後から浮かんできた思考だけでなかったことにしなくてもいい。
そして、望みに意識を戻したとき、少しでも嬉しい気持ちが戻ってくるなら、その気持ちを味わってもいい。
実現するかどうかを確かめるためではなく、今、自分が何を望んでいるのかを感じるために。

私にとって「いい気分でいる」ということは、何かを叶えるために感情を無理に整えることではなく、
自然に生まれた楽しさを、自分で打ち消さずに味わうことなのかもしれません。

まとめ|望みが生まれたとき、その楽しさまで取り下げなくていい

高校生の頃、私は楽しい妄想をしても「どうせそんなことは起こらない」と、
自分で取り下げていました。
望みが生まれても、現実になったことがないからと疑ってしまう。
楽しい気分になっても、叶わないかもしれないと考えて、その気分を手放してしまう。

でも、今振り返ってみると、私は望みが叶わなかったから楽しめなくなったのではなく、
叶うかどうかを考え始めたことで、楽しさから離れていたのかもしれません。

エイブラハムの教えに触れて、望みを持つことや、
いい気分でいることについて考えるようになりました。
そして今、少しずつ分かってきたことがあります。
望みが生まれたとき、すぐに叶うかどうかを判断しなくてもいい。

不安な思考が浮かんできても、その思考をなくそうと頑張らなくてもいい。
まだ現実になっていなくても、想像するだけで嬉しいなら、その嬉しさを味わっていい。

未来を信じ込まなくても、今、自分の中に生まれている望みを認めることはできます。
「こうなったら嬉しいな」
そんな気持ちが生まれたとき、すぐに「でも、どうせ無理」と打ち消さなくてもいい。

自分の望みを認めることと、それが叶うかどうかを決めることは別だから。
まずは、自分の中に生まれた望みを受け取ってみる。
そして、自然に感じる楽しさや嬉しさを、そのまま味わってみる。

望みが叶うと信じられるようになるまで、望みを楽しむことを待たなくてもいい。
今は、そんなふうに思っています。

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