ワクワクすることを、無理に探さなくてもよかった

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エイブラハムの教えに触れていると、
「ワクワクすることを考える」
「いい気分でいる」
という話が出てきます。

望みに意識を向けて、いい気分でいる。
そう聞くと、なんだか楽しそうですよね。

でも、以前の私は、これを実践しようとすると、少し難しく感じていました。
ワクワクすることって、何だろう?
何を考えたら、ワクワクできるんだろう?
もっと気分が上がることを考えたほうがいいのかな?

そんなふうに、何か特別に気分が高まるものを探そうとしていたんです。
でも、考えれば考えるほど、何を思い浮かべればいいのか分からなくなってしまう。

ワクワクすることを考えようとしているのに、なぜか疲れてしまう。
そんなことがありました。

「ワクワクしなければ」と頑張っていた

私は、ワクワクすることを考えるというのは、もっと気持ちが高まるようなことを想像するのだと思っていました。
楽しみで仕方がないこと。
思い浮かべるだけで、胸が躍るようなこと。
「これだ!」と思えるような、強い喜びを感じること。
そういうものを見つけなければいけないような気がしていたんです。

でも、そんなことを考えても、いつも何かが思い浮かぶわけではありません。
何か楽しいことはないかな。
何を考えれば気分が上がるかな。

そうやって探しているうちに、いつの間にか、ワクワクすることを考えること自体が課題になっていました。
本当は、いい気分でいたいだけなのに。
いい気分になるために、何かを考えなければいけない。
そんなふうに、自分を動かそうとしていたんですよね。

でも、よく考えてみると、私は普段、ワクワクすることを探さなくても、
自然に楽しい気分になっていることがありました。

日常の中にも、小さな楽しみがあった

たとえば、家に帰ったら、あれを食べよう。
好きな漫画の続きを読もう。
楽しみにしている作品を見よう。
そんなことを考えると、自然と嬉しい気持ちになることがあります。

特別に大きな出来事があるわけではありません。
人生が変わるような望みでもない。
ただ、帰ったら好きなものを食べられる。
楽しみにしていた続きを見られる。

そんな、日常の小さな楽しみです。
でも、そのことを考えていると、ちょっと嬉しくなる。
「楽しみだな」と思う。
そして、その時間を想像して、自然に気分がよくなっているんです。

私は、こういう気持ちを、わざわざワクワクすることとして数えていなかったのかもしれません。
もっと強い喜び。
もっと大きな望み。
もっと気持ちが高まる何か。
そんなものを探す一方で、すでに自分の中に生まれていた小さな楽しさを、見過ごしていたんですよね。

そう考えると、エイブラハムのいう「いい気分でいる」ということも、
以前とは少し違って感じられるようになりました。

いい気分は、無理につくるものではなかった

以前の私は、いい気分でいるためには、何かをしなければいけないように考えていました。
楽しいことを考えなければ。
ワクワクすることを想像しなければ。
ネガティブなことではなく、ポジティブなことに意識を向けなければ。
そうやって、いい気分でいることを実践しようとしていたんです。

でも、日常の小さな楽しみに気づいてみると、少し違うことが見えてきました。
私は、すでに自然にいい気分になっていることがあった。
好きなものを思い浮かべたとき。
楽しみにしていることを考えたとき。

何かをしていて、「ああ、楽しいな」と感じたとき。
そんな瞬間には、いい気分になろうと努力していたわけではありません。
ただ、そう感じていた。

それなのに私は、エイブラハムの教えを実践しようとすると、
何か特別なことをしなければいけないように考えてしまっていたんですよね。
でも、もしかすると、必要だったのは、いい気分を新しくつくり出すことではなかったのかもしれません。
自然に生まれている楽しさを、ちゃんと味わうこと。
それだけでも、いい気分でいることはできるんです。

そして、ここで、以前の私がワクワクすることを探そうとして
疲れてしまった理由も、少し分かってきました。

特別な望みを探すことで、今ある楽しさを見失っていた

何か大きな望みを持たなければ。
もっとワクワクすることを見つけなければ。
そう考えていると、今の自分が感じていることではなく、
まだ見つかっていない何かを探すことに意識が向いてしまいます。

今の自分には、そんなに楽しみなことがない。
もっと気分が高まる何かが必要だ。
そう思ってしまうこともありました。
でも、本当にそうなのでしょうか。

家でゆっくり過ごすことが好き。
好きなものを食べるのが楽しみ。
気に入っている作品を、また見たい。
そんな気持ちも、自分の中にある望みです。
大きな目標や、人生を変えるような出来事だけが望みなのではありません。

日常の中にある小さな楽しみも、自分が望んでいることなんですよね。
そして、それを考えて嬉しくなるなら、その嬉しさを味わってもいい。
「こんな小さなことでいいのかな」と判断する必要もありません。

誰かと比べて、もっと大きな望みを持たなければいけないわけでもない。
自分が何を楽しみにしているのか。
何を好きだと感じるのか。
そこに目を向けるだけでも、自分の望みは見えてくるのかもしれません。

そう考えると、ワクワクすることを探すよりも、
今の自分が自然に楽しんでいることに気づくほうが、私には合っているのかもしれないと思うようになりました。

「これが好き」「楽しみだな」を、そのまま味わう

何かを考えたとき、少し嬉しくなる。
好きなものを思い浮かべて、気分がよくなる。
そんなとき、以前の私は、それをもっと大きな喜びにしようとしていたのかもしれません。

もっと気分を高めたほうがいいのかな。
もっとワクワクしたほうがいいのかな。
そうやって、今感じているものよりも、さらに強い感情を求めていた。

でも、今は、そのままでもいいのだと思います。
「楽しみだな」
「ああ、これ好きだな」
「いいなあ」

そんな気持ちが自然に生まれたなら、それをそのまま味わってみる。
無理に大きくしなくてもいい。
もっと強い感情に変えなくてもいい。
その瞬間に感じている楽しさを、ただ感じていればいい。

そして、別のことが気になったら、そちらに意識が向いてもいい。
ずっと同じ気分でいなければいけないわけでもありません。

また何かを楽しみに思うことがあれば、そのときに味わえばいい。
いい気分でいるということは、いつも高揚していることではないのかもしれません。
自分の中に自然に生まれる喜びや心地よさに気づいて、それを無理に否定しないこと。
今は、そんなふうに感じています。

まとめ|ワクワクすることを探すより、今ある楽しさに気づく

エイブラハムの教えに触れた頃、私はワクワクすることを考えようとして、何か特別なものを探していました。
もっと気分が高まること。
思い浮かべるだけで、強い喜びを感じられること。
そんなものを見つけなければいけないように思っていたんです。

でも、日常を振り返ってみると、私はすでに、小さな楽しみを感じていました。
帰ったらあれを食べよう。
好きな作品の続きを見よう。
そんなことを考えるだけで、自然に嬉しくなっていた。

いい気分になろうと努力しなくても、楽しさは自分の中に生まれていたんですよね。
だから、ワクワクすることを無理に探さなくてもいい。
もっと大きな望みを持とうとしなくてもいい。

今の自分が好きだと感じるものや、楽しみにしていることを、そのまま受け取ってみる。
その小さな楽しさを、もっと大きなものにしようとせず、今感じているまま味わってみる。

そうすることで、いい気分でいることも、以前より自然なものになっていくのかもしれません。
いい気分になるために、何か特別なものを探さなくてもいい。
自分の中にすでにある楽しさに、気づいてあげればいいんです。

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