自分の望みを叶えることは、無理やり押し通すことじゃなかった
自分の望みを大切にしよう。
自分がやりたいことを選ぼう。
そんな言葉を聞くと、以前の私は、
もっと自分の意志を強く持たなければいけないような気がしていました。
周りの意見に流されず、自分の望みを貫く。
怖くても、自信がなくても、自分のやりたいことを実行する。
そうやって、何かを乗り越えていくことが必要なのだと思っていたんです。
でも、自分の望みを選ぼうとすると、怖さが出てきます。
失敗したらどうしよう。
人にどう思われるだろう。
誰かに迷惑をかけるんじゃないだろうか。
すると、その怖さを何とかしようとしたり、怖さを乗り越えて行動しようとしたり。
自分の望みを大切にしたいはずなのに、なんだか苦しくなってしまう。
そんなことがありました。
でも最近になって、ひとつ気づいたことがあります。
自分の望みを叶えるために、怖さを押し切る必要があるのだろうか。
そもそも、望みを大切にすることは、何かを無理やり押し通すこととは違うのかもしれません。
望みを叶えるために、頑張らなければいけないと思っていた
何かをしたいと思ったとき。
「こうなったらいいな」
「これをやってみたいな」
そんな気持ちが生まれます。
でも、そのあとに不安が出てくる。
本当にうまくいくのかな。
失敗したらどうしよう。
こんなことをして、意味があるのかな。
すると、私はその不安をどうにかしようとしていました。
もっと自信を持たなければ。
もっと前向きに考えなければ。
怖くても行動できるようにならなければ。
そうすれば、望みを叶えられるようになると思っていたんです。
でも、考えれば考えるほど、最初にあった「やってみたい」
という気持ちから離れてしまうことがありました。
本当は、ただやってみたかっただけなのに。
いつの間にか、自分の不安を克服することが課題になっている。
望みを叶えるために、自分を変えなければいけない。
そんなふうに考えていました。
今振り返ってみると、私は望みを叶えることよりも、
望みを叶えようとするときに出てくる怖さをなくすことに、一生懸命になっていたのかもしれません。
そんなとき、エイブラハムが伝えている「下流」という考え方が、少しずつ気になり始めました。
望みの流れに、逆らっていたのかもしれない
エイブラハムの教えに触れていると、
「上流に向かう」「下流に向かう」という表現が出てきます。
以前の私は、この違いを理解しているつもりでも、
実際に自分の生活の中でどういうことなのか、よく分かっていませんでした。
でも、自分の望みと、それに対する抵抗について考えるうちに、少しずつつながってきたんです。
たとえば、仕事を休みたいと思ったとき。
本当は休みたい。
でも、給料が減るのが怖い。
迷惑をかけるのが怖い。
周りからどう思われるか怖い。
そんな考えが出てくると、私はその不安を何とかしようとしていました。
休んでも大丈夫だと思えるようにならなければ。
迷惑だと思われないようにしなければ。
休んでいいと、自分が納得できる理由を見つけなければ。
そうやって、いろいろなことを考えていました。
でも、よく見ると、最初にあった望みは「休みたい」という、とてもシンプルなものでした。
そこに、さまざまな考えが加わっていく。
そして、その考えを解決しようとするうちに、望みそのものを取り下げそうになっていたんです。
休みたいという望みがあったのに、休むことへの不安をなくそうとして、余計に苦しくなっていた。
もしかすると、これが私にとっての「上流」だったのかもしれません。
では、下流に向かうというのは、怖さを無視して望みを押し通すことなのでしょうか?
私が気づいたのは、むしろ反対のことでした。
怖さがあっても、望みを認めていい
「休みたい」
そう思ったとき、すぐに「でも、迷惑をかけるかもしれない」という考えが浮かんできました。
以前なら、その不安を何とかしようとしていたと思います。
でも、そこで少し立ち止まってみました。
迷惑をかけるかもしれない。
それは、そう思っている自分がいるということ。
だからといって、休みたいという気持ちがなくなるわけではありません。
「迷惑をかけるかもしれない。でも、自分の体も大切」
そんなふうに考えてみると、少し見え方が変わりました。
迷惑をかけないことだけを優先するのではなく、自分の身体も大切にしていい。
どちらか一方を否定しなくてもいいんです。
怖さがあるからといって、望みまで取り下げなくてもいい。
かといって、怖さを無視して無理やり望みを押し通す必要もない。
ただ、怖さがある自分も認めながら、もう一度、自分の望みに目を向けてみる。
それだけでも、気持ちが少し緩むことがあります。
下流に向かうというのは、何があっても自分の望みを貫くことではなく、
望みに逆らっている考えと、無理に戦わなくてもいいと気づくことなのかもしれません。
そして、ここで大切なのは、怖さをなくしてから自分の望みを選ぼうとしなくてもいい、ということでした。
「それでも私はどうしたい?」と聞いてみる
不安な考えが出てきたとき。
「どう思われるだろう」
「うまくいくのかな」
「やめておいたほうがいいんじゃないか」
そんな思考を、無理に消そうとしなくてもいい。
そうした考えが浮かんできても、もう一度、自分に聞いてみればいいんです。
「それでも私はどうしたい?」
怖いけれど、やってみたい。
不安はあるけれど、休みたい。
周りの人がどう思うかは気になるけれど、自分の気持ちも大切にしたい。
そんな答えが返ってくることもあります。
以前の私は、不安があるなら、その不安を解決してから行動しなければいけないと思っていました。
でも今は、不安があることと、自分がどうしたいかを知ることは、別のことなのだと思うようになりました。
不安がなくなるまで待たなくてもいい。
自信が持てるようになるまで、自分の望みを保留にしなくてもいい。
自分の望みを認めたうえで、実際にどうするかを考えればいい。
もちろん、望みがあるからといって、いつもそのとおりに行動する必要はありません。
現実の状況を考えることも、誰かへの配慮も、大切です。
ただ、それらを考えることと、最初から自分の望みを否定することは違います。
「私はどうしたい?」と聞くことは、自分の望みを無理やり通すためではなく、
自分の気持ちを置き去りにしないためなのかもしれません。
こう考えるようになってから、エイブラハムの「いい気分でいる」という話も、
以前とは少し違って感じられるようになりました。
望みを叶えるために、いい気分になろうとしなくてもいい
以前の私は、望みを叶えるためには、いい気分でいなければいけないと思っていました。
もっとワクワクしなければ。
不安を手放さなければ。
望みが叶うと信じられるようにならなければ。
そんなふうに、いい気分でいることまで、頑張って実践しようとしていたんです。
でも、いい気分になろうと頑張るあまり、今の自分がどう感じているのかを置き去りにしていたのかもしれません。
本当は不安なのに、ポジティブに考えようとする。
怖いのに、怖くないふりをする。
そんなことをしていたら、結局、自分の気持ちと戦うことになってしまいます。
でも、最初から明るい気分でいられなくてもいい。
不安があるなら、不安がある。
怖いなら、怖い。
そのうえで、自分の望みに目を向けてみる。
「私はどうしたい?」
そう問いかけたとき、少し気持ちが楽になる考えが見つかることもあります。
「迷惑をかけるかもしれない。でも、自分の体も大切」
その考えに少し安心できたなら、その安心を無理に大きくしようとしなくてもいい。
今より少し楽に感じられる。
少し肩の力が抜ける。
それだけでも、十分なのかもしれません。
いい気分でいるために、無理に自分を変えるのではなく、
自然に生まれる安心や心地よさを、少しずつ受け取っていく。
そんなふうに考えるようになりました。
まとめ|望みを押し通すのではなく、望みに逆らわなくてもいい
自分の望みを叶えたいと思うとき、以前の私は、もっと強くならなければいけないと思っていました。
不安を克服する。
自信をつける。
周りの目を気にしなくなる。
そうやって、自分を変えることに一生懸命になっていました。
でも、今は少し違う見方ができるようになってきました。
望みが生まれたあとに、不安な考えが出てきてもいい。
怖さがあってもいい。
自分の望みを大切にすることは、怖さを押し切って無理やり行動することではありません。
不安をなくしてから望むのでもなく、怖さがある自分のまま、自分の気持ちを認めていい。
そして、必要なときに、もう一度聞いてみる。
「それでも私はどうしたい?」
その問いかけを通して、自分の望みに戻ってくる。
それが、私にとっての下流への移動なのかもしれません。
自分の中に生まれた望みを、怖さや不安が出てきたからといって、すぐに取り下げなくてもいい。
無理やり願望を押し通さなくてもいい。
望みに逆らって頑張るのではなく、望みがある自分を、そのまま認めていく。
今は、そんなふうに思っています。