いつも「これでいいのかな?」と
人に答えを求めていた
何かを決めようとするとき、「これでいいのかな?」って思うこと、ありませんか?私は、ずっとそうでした。自分では「こっちがいい」と思っていたはずなのに誰かの意見を聞いた途端、「あれ?私、どうしたいんだろう?」となることもありました。そして、誰かに「それでいいんじゃない?」と言ってもらえると、ちょっとホッとする。
でも、その安心感は、そんなに長く続かない。
「これでいいのかな?」が、いつも頭の中にあった
また別の場面になると、「これでいいのかな?」が出てくる。今思うと、私はずいぶん長い間、
でも、そんな自分を責めたいわけではありません。だって、そのときはそれが一番安心だったから。「誰かが正しいと言ってくれたら安心できる」それで何とかやってきたんですよね。
そんな私が、自己対話を続ける中で、少しずつ気づいていったことがあります。
私は、「人は正解を知っている」と思っていた
子どもの頃から、周りの人を見ることが多かったように思います。- 「あの人はちゃんとしている」
- 「あの人は頭がいい」
- 「あの人は何でもできる」
- 「あの人は人付き合いが上手」
- 「私はよく分かっていない」
- 「私はうまくできない」
- 「私の考えは間違っているかもしれない」
そんな感じだった。
だから、何かあったときには、「どうするのが正しいんだろう?」と考える。そして、その答えを知っていそうな人を探す。本を読んだり、人の話を聞いたり、ネットで調べたり。もちろん、そうやって情報を集めることは悪いことじゃない。 今でも私は情報を集めるのが好きです。
でも、少し違ったんですよね。私は情報を「参考」にするというより、
だから、いくら調べても、なかなか安心できない。だって、また次の問題が出てくるから。そのたびに、「これってどうするの?」と外側を見る。そんなことを繰り返していました。そしてあるとき、自己対話をしていて、ふと思ったんです。
「あれ? 私、どうしてこんなに答えを外に探してるんだろう?」
「どうしたらいい?」をやめてみた
その頃の私は、自分にいつも、「どうしたらいい?」と聞いていました。
でも、この質問をすると、すぐに頭が動き始めます。
- 「普通はこうするよね」
- 「こうしたほうがいいよね」
- 「こっちのほうが得だよね」
- 「こうしたら嫌われないよね」
気づくと、また外側の情報を集めていました。
そこで、ちょっと質問を変えてみたんです。「どうしたらいい?」ではなく、「私は、どう感じてる?」って。すると、すぐに答えが出るわけではありません。「分からない」ということもありました。でも、少し待ってみる。
すると、
- 「本当は嫌だった」とか、
- 「これはちょっと無理してる」とか、
- 「こっちはなんとなく好き」とか、
- 「これはやってみたい」とか。 そんな小さな感覚が出てくる。
それを見つけたとき、「あれ?」と思いました。私、ちゃんと感じてたんだ。
私には「答え」がなかったわけじゃなかった
それまで私は、「自分には答えが分からない」と思っていたんです。
でも、よく見てみると、そうじゃなかった。
- 「嫌だな」
- 「嬉しいな」
- 「こっちが好きだな」
- 「これはやりたくないな」
ちゃんと感じている。
ただ、その感覚よりも、
- 「世間ではどうなの?」
- 「みんなはどうしているの?」
- 「誰かは何て言っているの?」
ということを優先していただけだった。
そう思ったら、なんだか少し切なくなりました。ずっと自分の中にあったものを、「そんなの大したことない」みたいに扱ってきたのかもしれない。
本当は、「嫌だったんだね」「こっちが好きだったんだね」って、もっと聞いてあげてもよかったのかもしれない。そう思うようになりました。そして、ここから少しずつ、別のことも気になってきました。
もしかして、人の目が気になることも、これと関係しているのかな?
どうして、こんなに人の目が気になるんだろう
私は昔から、人の目が気になりました。
- 「どう思われるかな」
- 「変に見えないかな」
- 「嫌われないかな」
休みの日に知り合いに会うのが嫌だなと思うこともありました。別に何か悪いことをしているわけじゃない。それなのに、人に見られることを意識してしまう。
これもずっと、
「人からどう見えるか」を基準にしていたからなのかもしれない。「私はどうしたい?」より先に、「人からどう思われる?」が来る。そうすると、自分の感覚がどんどん後ろに下がっていく。
そして、いつの間にか、
まで分からなくなってしまう。
そこでまた、誰かの答えを探す。今思うと、ちょっと苦しい循環だったなと思います。でも、自己対話をしていくうちに、少しずつその循環から外れる瞬間が出てきました。
自分の感覚に戻るって、こんなに小さいことだった
- 「自分らしく生きよう」
- 「自分軸を持とう」
そんな言葉を聞いたことはありました。でも私は、「じゃあ、自分らしくって何?」と思っていました。自分軸って言われても、よく分からない。だからまた、「自分軸を持つ方法」を調べる。
そしてまた、誰かの答えを探してしまう。今考えると、ちょっと面白いですよね。
自分の答えを探すために、他人の答えを探していた。
だから今の私は、「自分の感覚に戻る」って、そんなに大きなことじゃないと思っています。
- 「今日これ食べたい?」
- 「今これやりたい?」
- 「本当はどう思った?」
- 「これは好き?」
そんな小さなところから。
- 「なんとなく嫌」でもいい。
- 「よく分からない」でもいい。
- 「こっちが好き」でもいい。
すぐに人生の答えを出さなくてもいい。ただ、「私は今、こう感じてるんだな」と気づいてあげる。
それだけでも、少しずつ何かが変わっていく。私はそんなふうに感じています。
外側を見てもいい。でも、最後は自分に戻ってくる
だからといって、「人の意見なんて聞かなくていい」とは思っていません。知らないことは教えてもらえばいい。人の経験も参考にすればいい。本を読むのもいい。ネットで調べるのもいい。
私自身、今でもたくさん情報を集めます。
ただ、「教えてもらったこと=私の答え」ではない。そこだけが、以前とは少し変わりました。誰かが、「こうしたほうがいいよ」 と言っていたら、「そういう考え方もあるんだな」と受け取る。
そして、「私はどう感じる?」と、自分のところに戻ってくる。
その繰り返し。外側を閉じるのではなく、外側を見たあと、自分のところへ帰ってくる。今の私にとっては、それが「自分の感覚を取り戻す」ということなのかもしれません。
そして、ここまで考えてくると、もう一つの言葉が浮かんできました。
「私はどうする?」を、自分に返していく
それが、私にとっての「主権」という感覚でした。
ちょっと難しい言葉に聞こえるけれど、私が感じていることはとてもシンプルです。誰かの意見を聞いてもいい。 相談してもいい。情報を集めてもいい。
でも最後に、「私はどうする?」を自分に返す。
誰かに決めてもらうのではなく、
- 「私はこう感じている」
- 「だから、私はこうする」
と、自分のところに戻していく。
最初から自信がなくてもいい。迷ってもいい。途中で変えてもいい。「やっぱり違った」と思ってもいい。自分で決めるということは、いつも正しい選択をすることではないんだと思います。
ただ、自分の人生について、自分を置き去りにしないこと。私は、そんなふうに感じるようになりました。
まとめ|
私はずっと、「人は正解を知っている」「私は正解を知らない」と思っていたのかもしれません。だから、人の目が気になった。人と比べたし。誰かの意見を探した。
「これでいいのかな?」と、外側に答えを求めた。
でも、自己対話を続けているうちに、「私はどう感じてる?」と、自分に聞くようになった。
すると、そこにはちゃんと自分の感覚がありました。
- 「嫌だな」
- 「好きだな」
- 「やってみたいな」
- 「今日はやりたくないな」
本当に小さなものだけど、ちゃんとある。もしかしたら私は、答えを持っていなかったんじゃなくて、自分の中にある小さな答えを、ずっと聞いていなかっただけなのかもしれません。もし今、「これでいいのかな?」と迷っていることがあるなら。
すぐに答えを出さなくてもいいから、「私は、本当はどう感じてる?」と、自分に聞いてみる。もしかしたら、その答えは思っているよりずっと小さな声で、もう自分の中にあるのかもしれません。
